自分のことを自分で振り返るべく、「農村と私」と題して書いていこうと思います。

私は高校時代までずっと東京の品川区で育ちました。

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羽田空港までモノレールで一本、品川駅にもバスで1本、そんな便利な埋め立て地のニュータウンに2~3歳の時に移り住み、マンションの7階で大きくなりました。1つ下の妹と毎晩のように食後にたくあんを「仙豆」と称して食べ天下一武道会ごっこを開催し、「下の家に迷惑がかかるから止めなさい!」と怒られるような環境でした。
 団地の中は許可制のため車が通ることもほとんどなく、買い物する場所も病院も学校も公園もすべて徒歩圏内のまさに「人が住むための」空間として開発された場所でした。

■埋め立て地(実家)と農村(現住居)の比較■
・小学校 :(埋)徒歩5分→(農)徒歩測定不能
・スーパー:(埋)徒歩3分→(農)徒歩測定不能
・病 院 :(埋)徒歩2分→(農)徒歩不可
・公 園 :(埋)徒歩3分→(農)徒歩測定不能

農村、なんて不便なんだ・・・。徒歩でいけるのは横の寺と家の畑しかない。

そういうわけで「農村」というイメージすらもわかない場所で育ちました。ただ未だに自分でもよく分からないのですが、小学校の時に謎の趣味がありました。

小学校の放課後活動として、高学年になると(確か)週1回活動するクラブ活動がありました。1年ごとにどのクラブに入るか決めるので、4年と6年の時は球技クラブという球技をするクラブに入りました。5年の時だけ、魔が差したように「科学工作クラブ」というところを選びました。名前は大層ですが、何をするかというとただひたすらプラモデルを作るという陰なクラブでありました。
 
他のメンバーはミニ四駆やガンダムなどを作っては意見を交わして楽しんでいましたが、当時の自分は、ひたすら昭和の風景や古民家のプラモデルを作り続けていました。


種を蒔くと芝が生えてくるシステムが最高であった。



こんな場所が近くにあればいいのにといつも妄想していた。



各種部品が異様に細かすぎてピンセットで丁重に作成していた。柳の木の雰囲気を出すのが困難であった。

周りに全く理解者がおらず怪訝な表情で見られていたはずですが、当時から周りと違うことをすることに気まずさはなく、
「石焼き芋屋台のこの哀愁感やばい。」
などと心の中で興奮しながら作っていました。

もしかしたらこの頃から、自分の生活している場所と全く違う場所への興味や関心があったのかもしれません。

言うまでもなく、丁寧に作られた幾多のプラモデルたちは、興味を失った後、ありえないほど簡単に特定できる何者かによって処分されていたのでありました。

(無駄につづく)