大学生活も終盤に差し掛かり、進路を決める時期となりました。
 
あらゆる職種に興味が持てず、ブレーンヒューマニティーの活動を通じて子どもと直接関わるのはあまり向いてないなぁと気付いたことから、先生になる熱も空前の灯火となり、どうしよーという感じでした。
とりあえず考えるのが面倒になってきたので、とても大事な3年生の3月に後輩とぞうさんに乗りに行ったりしてました。

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そんな時、友人に教えてもらったのが、その後内定をいただいた公文教育研究会(公文式)という会社でした。
現場で子どもと関わる先生方のサポートをする。
ブレーンヒューマニティーの活動でも、子どもと班を作る役割よりも、裏で次の企画を準備したり、本部で各スタッフに指示を出したりするような役割の方が好きだったので、これなら一番役に立てそうな形で教育に携われるかもしれないと思い入社を決めました(大学卒業したてのペーペーがすぐに先生の役に立てるわけがなかったのですが)。

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公文の教室は全国各地にあるので、総合職採用の社員は全国にある事務局を飛び回ります。
内定時代の意向調査で、
「寒いのが苦手なので那覇事務局がいいです。」
と言ったものの、調査された意味も特になく仙台事務局に配属が決まり、一度も行ったことのなかった場所で社会人生活をスタートすることになりました。

仙台駅に着いた瞬間、
「うお!ロフトがある。都市だ。」と妙に安心したのを覚えています(偏見極まりなし)。

1年間色々な仕事を教えていただき、1年目の終わりから地区を持たせてもらうことになりました。自分の担当地区は、仙台市内近郊の町や郡部のエリアでした。

この時に、初めて「地域」というものを意識することになりました。

特に郡部の教室では、小学校の生徒数が非常に少ないところでも20年30年と根を張り続け教室を開かれている先生がたくさんいました。
初めてある教室に訪問したとき、
「明らかに子どもがいなさそうな田舎の教室になんで子どもがこんなにいるんだ!?」
と驚愕したのを今でも覚えています。
小さいコミュニティなので、色んな噂話や望んでいない評判も広がったりした時もあったと思います。それでもなお、その地域の教育を支えるために教室を開き続けています。
 
女性に対してこういう言葉は適切ではないかもしれませんが、純粋にその姿が「かっこいい」と思えました。地域というのはこういう人たちがそれぞれの役割を全うしながら「地域」たりえているのだなとひしひしと感じることになりました。人の数が少ない分、個人の色が濃く出ているような気がして、市内の教室よりも郡部の教室を見てよりそういう気持ちを感じていました。

一方で、そういう教室を見ると同時に、自分の中にも、
「なぜ自分が関わるのは縁もゆかりもない宮城の子どもなのだろう?」
「自分はいつかどこかに腰を落ち着ける生き方をするのだろうか。それともこうやって転勤をしながら各地に足跡を残していく生き方を続けていくのだろうか。」
ということが頭を埋め尽くしていきました。

学生時代には考えもしなかった、

『自分はどこで生きていくのか。』

ということを強烈に意識するようになりました。

きっと関東や関西の、中でも都市部の事務局に配属であれば、ここまで「地域」ということを意識しながら物事を考えなかったような気がします。そう考えると、仙台事務局に配属してもらったこと、郡部を担当させてもらったことは本当にありがたい経験だったと思います。

(無駄につづく)