友人の結婚式があり、家族を連れて実家に帰った。

農村地域でまちづくりだ地域活性だとやっているが、実家の団地だって変わらず活力はなくなっている。自分が通った小学校も中学校も既に別の施設になっているし、家族連れで溢れていたファミレスはとっくの昔に高齢者向けの施設になっている。

なんとなく感じたことだけど、自分が育ってきた場所の様子が変わっていくことは、直視したくないという感情があるのかもしれない。
淡河に住んでいると、なぜこんな素敵な土地に戻ってこないんだろうと淡河で育ってきた人たちに対して思ったりする。でも別の面で捉えれば、自分たちの代よりも子どもの数は減り、高齢者は増え、地域にあったお店は潰れたりしていて、状況だけを並べれば確実に重くなっている。自分の生まれ育った故郷がそういう状況に緩やかになっていくのを何となく見たくないという気持ちは、自分が実家に戻る度に思う感情と似ているんじゃないかとふと思った。

自分が淡河という農村地域を知った瞬間は「子どもを増やそう!」という課題を持っている状態がデフォルトで、店が全然ないというのもデフォルトの状態であった。だからそこが出発点なので特に重いとも思わないし、どうやってその状態から子どもが増えて町がおもしろくなっていくのだろうかと考えるのは、RPGのソフトを立ち上げて仲間や武器や情報を集めてボスを倒しにいくという感覚とほぼ同じである。だから上がっていく感覚しかない。

これと同じことを自分の生まれ育った団地でやれというのは結構精神的にきついような気もする。過去を知らない状態から始めるのと、レベル50を知っていてレベル20くらいからやり直すというのは違う。どうやったってあの時のピカピカのマンション群に家族連れが溢れていた街には戻らないのだから。その輝かしい思い出を頭で反芻しながら今の現状を直視するのは中々苦しい。

あの頃かけずり回った小学校の校庭には、もう鉄棒もバスケットゴールもない。
生まれ育った街も、そこに住む人たちのために変化を続けている。
 
自分が選んだフィールドは別の場所だけど、どこかで誰かの役に立つことが、この街に育ててもらった恩返しになるのかもしれない。
と、この街に住まないことをそんな風に自分にとって都合のいいように正当化してるだけかもなと思った複雑な気分だった。
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