家族が寝静まった夜、なんとなく寝る気にならず、大した予定もないお盆に突入した中で(それは自分の働き方に起因するのかもしれないが))、過去のお盆って何してたっけと自分の過去のSNSをダラダラ読んでいる。

社会人1年目の2009年の冬、仙台という土地で仕事をしていた。
生まれた場所も学生時代を過ごした場所も離れ、働くということの難しさを知り、今後自分は何を大事にして生きていくのだろうと日々悶々としていた。
職場につけばスイッチが入り仕事を前向きに一生懸命がんばっていた。
仕事を覚えていくこと、手応えがあること、すごいなぁと思える方々に色んなことを教えてもらうことがおもしろかった。
でも家に帰ったり休日になった途端、鬱になったかのようにこれからのことを考えては先が見えず(逆に見え過ぎた?)気分が晴れることがなかった。
仕事で結果が出れば解消するというようなそういう次元のことではなかったからだ。
こんなに多重人格者のような毎日を過ごしていたのは、後にも先にもこの2年くらいだった。
 
その当時、何かから逃げるように、でも自分はこうありたいと意志表示をした文章があった。
それは当たり前のことかもしれないけれど、 
好きな人がまわりにたくさんいる環境で暮らすこと。 

関西のどっかに定住したい。 
一軒家を建てたい。 
家は個室を作らないで 
全部が緩やかにつながってるような構造にして、 
子どもがリビングで勉強するような、 
どこにいても子どもの気配が感じられるような、 
そんな家を建てたいんだ。 

それで週末は庭で友達を呼んでBBQをするんだ。 
クッキングパパ的な。 
今まで生きてきて、一番深く刷り込まれた価値観は、 
実はクッキングパパなのかもしれない。 
小1から今までずっと読んでるし…。 

たぶん掘り下げて掘り下げて考えると、 
いつか起業したいなんて思うのは、 
起業することで好きな場所で定住することができて、 
かつ好きな人に囲まれて仕事ができそうだと 
甘い考えを持っているからに過ぎないのだ。 
忘却の彼方にあったけれど、あの24歳の頃に思い描いていたことは、回り道をし続けながらも少しずつ近づいているのだと。
32歳になった今も、大枠は対して変わっていないのだ。
1人の人間の思考回路なんてきっとそんなものなのだ。

24歳の時点では、家は建てるもんだと思っているようだし、農村というキーワードはない。あの時は北欧風の新築の家に住みたかった。どなた様か建ててもらって遊びに行かせてください(爆)

起業とか独立という観点も、仕事で何かを成し得たいというよりは、自分を取り巻く環境の在り方としてその選択肢を取るのが最もいいのではないかという視点しかない(今はもう少し膨らみが持てていると信じたい)。

アメリカでは、3000本ヒットを打つという驚異的な数字を残したスーパースターがいる。
 
でもほとんどの人にとって、高みを目指すという目標の他に、もう少し生活を通した充足感を得たいという目標とか、微妙にずれている歯車を少しだけセッティングし直したいくらいの目標とか、そういうことでいいんじゃないかと思ったりする。
でも、やっぱり思っているだけでは変わらないから、目を反らさず向き合って動かしていくことが大切なんじゃないかと思う。

過去の自分が考えていたことに、目を背けないようにしないと。
たぶん純度はどんどん下がっていくだろうから。 

予定があるないにせよ、結局毎年お盆はこういうことを考えている気がする。