ふとテレビを見ていると、久々にぐっとくる言葉に出会った。
 
『それは、時代を変えるためじゃない。
  時代に、テメェを変えられないためだ。』

時代を変えるとか、社会を変えるというのはとんでもなく難しく途方に暮れる話である。
またその言葉には、他者を変えるというニュアンスが含まれているような気がする。

NPOでも、社会課題の解決として様々な取り組みがあるけれど、自分の能力とか、時間配分とか、物事の捉え方を踏まえ、そこから付かず離れずくらいの距離感に身を置く方がしっくりくるんじゃないかと思ってもうすぐ1年。

何かを変えたいというよりは、
大きな力を持つ者とか、
大きな看板を持つところとか、
そういうもの達にとって都合のいい社会に導かれることに「自分が」従いたくないという、まずはそこなんだろうなということなのだ。
他者の話は二の次で、まずは自分がそういう思想でもギリギリ生き抜けるような力とやり方を身に付けたい。 

かつて肥大化したロックスターや社会システムにNOを突き付け、安いギターと3コードでロックはできるだろ、くだらない社会だと牙をむいたあの人たちのような精神性がほしいのだ。
ただ彼らには、社会を変えるような周到な戦略も、継続性もなかった。
『時代に、テメェを変えられないためだ。』
それだけの衝動的なものなのだと。
その衝動的なやり方だけでは意味がないことは重々理解できるくらい年は重ねたつもりである。
でもなんとなく、その感覚がしっくりくるのだ。

と、こんな偉そうなことを誰も来ないサツイマイモ農園の開園時間中に書いている。

力無きものを無力と呼ぶ。
そういうことも、年を重ねると痛いほどに突き付けられるのである。