火曜水曜と、長期実践型インターンシップのコーディネートの仕事関係で、チャレンジ・コミュニティ・プロジェクトというものの各拠点の代表者会議のようなものに初めて参加させていただいた。

あまりまとまりがなくダラダラと書くけれど、ここ最近の色んなことと繋がっているような気がした。

去る1月21日には、『農村地域の文化財の保存活用と持続的自立支援』というフォーラムに登壇し、地域コミュニティのあり方みたいなことについてディスカッションした。やはりすべては誰が負担を背負って物事を進めるのかという話で、理論もシステムも挙がってくる意見も、覚悟を決める人間がいない上ではいつまでも机上の空論でしかないのではないかという話をした。
となると、やはり意見言うものではなく実際に手足を動かす個のプレーヤーを増やしていくことが大事で、そのプレーヤーの挑戦を冷ややかな目で見ない地域の在り方も地域で育んでいく必要があると思う。
一方で、まちづくりとか地域活性とは何なのかという話で、外から見れば少子高齢化で疲弊しているように見えるかもしれないが、そこに住む人々は普段の営みを大切に続けているだけで、そこに「活性化しましょうよ!」みたいなものを(特に外から)入れ込んでいくのはあまりいいものではない可能性もある。

そんなことを話したり考えたりするきっかけがあった中で、お次はこの会議に参加させてもらい、また「チャレンジ」という文脈が出てきた。

「チャレンジするコミュニティを作る先にどういう未来になってほしいのか」という問いに対し、その場にいる方々で対話の場を持った。
再度書くけれど、「チャレンジする」という言葉は結構強い意味合いを持っているような気がして、チャレンジするということが絶対的に善なのかというのは農村に生きていると分からなくなることがある。里山や農村というのは基本的に自然の摂理と折り合いをつけていくことを原則とする大きな変化を望まない場所であると認識している。ドラスティックなチャレンジの先に変に観光地化することで、人々の営みが壊れているケースも全国各地にあると聞く。
そんなことをぼそぼそと話したところ、
『「変わらない」ために「変えていく」ことがある。』
という言葉をいただいたのが妙にしっくりきたのであった。チャレンジの前段階のもがくでもいいから、守りたいものや地域がある人が、それを守るためのチャレンジがきちんと生まれる風土があればいいんだなと思った。

生涯学習という個々の人生の段階の中でのチャレンジ。
淡河町というコミュニティで考えるチャレンジ。 
これまでインターンシップの仕事と地域の活動はほぼほぼ切り離して考えていたけれど、「チャレンジするコミュニティを作りたい。」というところでは、なんだ、結局やりたいこと一緒じゃないか、なんで今まで気づかなかったんだ状態で変な気分になってしまった。

また明日から、色んな人とチャレンジするコミュニティを作っていきたいと思った。
image
(会場の『金沢学生のまち市民交流館』。学生にとって最高の場所だなぁ。こういう投資は素敵。)