たまに、ふと1日空く日がある。
今日も雨が止むか止まないかという中で、結局雨雲がぐずぐずしたまま茅葺きのお仕事が中止になった。

これはかつて少年の頃、学級閉鎖で学校に行かなくていいと朝告げられた時の異様な興奮と似ている。
この、急に全世界の誰よりも今俺は自由を得た感はなんだろう。
もう少年ではなく、中止イコール収入がないことと同意なのに、同じような感情の高ぶりを感じるのは、やはり基本的な思考回路は10歳の頃とあまり変わっていないと推測される。
 
これはお天道様と親方から与えられたありがたき安息日だと感謝し、晴耕雨読であればよい。
むしろそうしたい。そうありたい。
 
しかし、脳内では、
「あ、あれをやっておく時間ができた、やらねば…。休んでいるような余裕のある身じゃないだろ…。」
ということが頭を支配してしまう。
Gmailの山積みTO DOリストが頭を反芻する。
記憶力は低いはずなのに、こういう時に鮮明に浮かぶというありがた迷惑機能搭載である。
 
そしてどちらにも覚悟が決まらないまま中途半端な時間の使い方をする。
 
大抵夕方に待っている状態といえば、思っていた半分もやりたかったことが進まぬまま、ゆっくり一息入れた感じにもなれないという自分への失望感。

やるならやって充足感を味わえよ、君。
やらぬならやらぬで次の日に繋がる休み方をしろよ、君。
夕方の己は最も上から目線でその日の己を攻撃する。

ただ、強い意志で、
「おぉぉぉぉぉ今日は晴耕雨読なんだ!!!」
と気合を入れるものなのだろうかという疑問も残る。
たまに土日出ずっぱりが続いて平日のとある日に休もうと思う日もあるが、
「俺は今日休むんだ!」
と気張っているので、穏やかにジェントルに過ごせた試しはない。

休むとは一体何なのだろうか。
コーヒーをじっくり煎れながら、縁側でゆっくり本を読むことなのだろうか。
「休む!!」と気張っているので、まずコーヒーを煎れる時点で早く縁側で佇む状態を作りたいと焦っている。
ケトル早く沸騰しろとか思っている。
この時点で既に穏やかではない。
ただの阿呆である。

そして念願の、
「縁側でコーヒー片手に本を読む俺」
状態が出来上がると急速にその場への関心が薄れ、かつ多動なので30分で飽きてしまうのである。

そして多動な割に睡眠との相性は抜群なので、そのまま2時間くらい朝寝してしまい絶望するのである。

外に出かけようにも今すぐ欲しいものはあまり思い浮かばす、かつ稼ぐはずだった日にお金消費するのはまずいだろという気分になる。

やはりこういう時にどういう1日を過ごせるかで、人間の器が試されているような気がする。
コーヒーを煎れるところから心穏やかでダンディーな男になりたい。

一応一日の終わりに、せめてもの気持ちを込め、雨上がりのアジサイを撮ってみた…。
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