週に1回か2回、早く家に帰れれば夕飯を作る。
 
ちょうど先日は茅葺きの現場の仕事帰りで、
・かなりバテた。
・お米が喉を通らなそう。
・っていうか朝に米タイマーセットしておくの忘れた。
・素麺はもっと時間がない緊急時に取っておきたい。
・パスタだ。冷たいパスタだ。トマト使おう。
という結論を出した。
 
家に帰ると、トマトがない。
ごそごそ探すと、コーン缶とツナ缶を発見し、月に300円投資している某レシピアプリで、
「コーン ツナ パスタ」
と検索。
いくつもレシピが出てくるので、家にある調味料でいけるやつを選び、その通りに作る。

その通りに寸分の狂いなく作るので、うまい(適当な性格だが、料理は目分量で調味料を投入することはしない)。

自分も子どもも満足。
というのがいつもの日常である。

ただずっと気になっていることは、このレシピではもう2度と作らないだろうということだ。
子どもがまたあれを食べたいと言っても、完全再現は不可能であろう。

また別の日には、家にある材料をピックアップして炒め物か煮物かくらいに狙いを定め、その条件の中で現れたレシピを一期一会で作っているだろう。

つまり、我が家の思い出の味というものが子どもたちに芽生えるのかということを、最近ちょっと気にしている。

遠き記憶を辿れば、60日分くらいのローテーションで夕飯が出てきていたような気がする。
全く新しい料理が次々に出てくるということはなかった。

目の前に出てくる料理は、いつも以前に食べた時と同じ味で、楽しみなものもあれば、いくつかはあまり得意ではないものもあった。
小さい子どもが何度も同じ絵本を読んでほしいとせがむように、その「同じ」という安心感の中で育てられたような気がする。

おそらく昔は、家に鎮座する基本の分厚い料理本1冊と、新しいレシピを書き留めておくノートのようなものが基本線だったのではないだろうか。

大学生になって一人暮らしするときも、いくつかのレシピを両親に教えてもらい、パソコンの練習だと言ってワードに打ち込み、印刷してファイリングして一人暮らしの部屋に置いていた。

情報がたくさんあり、かつ一瞬で必要なものを取りにいけるという環境はすごい。
毎日のように買い物に行けない共働き世帯は、冷蔵庫にあるもので作るというスキルが必須で、その時に取り出せる情報がたくさんあるのはありがたい。
疲れて帰ってきて情報にアクセスできなければ、その場にある野菜と肉でウェイパー様を扇の要に置いた野菜炒めか、冬はポン酢頼みの鍋ばかりになるだろう(爆)
 
一方で、情報へのアクセスが容易すぎると、こうして特定のものへのこだわりとか思い出が作りにくくなるのかもしれないと、そんなことも思った。

得意料理を作りたいと思った最近の気持ちでありました。

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