今年も、住宅メーカーさんの新入社員による復興活動のお手伝いで、東北、熊本、広島と各地に行かせていただいた。
現代版百姓の現代版出稼ぎといったところ…?
普段ほとんど出張仕事がないので、外に出れるのは気分も新たに嬉しい。
 
約500名ほどの新入社員が、各回約40名ずつに別れ、2泊3日で災害の話を聞いたり、復興活動を行う。
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(石巻の大川小学校で語り部を聴く。)

自分の場合は2012年の初年度に関わってから間が空き、独立した後また声をかけていただき2017年から今年で3年目。やることは活動が成立するための現場回しをドタバタと。
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(熊本県の益城町の仮設。)
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(熊本県の南阿蘇にある廃校。この掃除の後、住民さんがお弁当屋さんを始めた。)
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(数年後の復旧が見込まれる南阿蘇鉄道の駅整備。)
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(広島の小屋浦では、水害でダメージを負った小学校の清掃。子どもたちが催しで恩返しを。泣けてしまった。)

 
2012年当時や、今年の広島(水害)は、災害の復興という意味合いが強かった。
一方で、今もなお関わり続けている東北(宮城県石巻市)での活動は、災害に対しての復興活動という文脈に加え、日本で既に起こっている、もしくは今後加速度的に広がっていくであろう課題も目の当たりにしているような気がする。
 
被災をすると、一時的に学校や公共施設等に避難し、そこが避難所と呼ばれるものになる。
そこからプレハブの仮設住宅に移る。ここで、元々のコミュニティは分断される。
傷の癒えぬ中、家も人間関係も変わるというのは本当に強いストレスであると思う。
 
そして、復興公営住宅という建物ができ、そちらに順次移っていく。
ここで仮設で築いてきたコミュニティが再び分断される。
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(復興公営住宅。真ん中にガーデン。)
 
パッと見ると、復興公営住宅は美しい。
ひとまず復興という文脈ではひと段落ついたのではないかという気になる。

ただ本当に人というのは不思議なもので、壁が薄くて、夏は暑くて冬は寒くて嫌だと言われていた仮設の方がよかったというご高齢の方は多い。
平屋(長屋)で、家の扉を開ければすぐに誰かの顔が見え、「おはよう。」と言える環境の方が、人は安心できていたのかもしれない。

復興公営住宅の家の扉は重い。
そして、「階」という物理的な要素が、さらに人を集まりにくくする。
逆を返せば、プライバシーを守るためには、非常に合理的な建物である。
実際自分も実家はマンションだが、今住んでいる家と比べてもそう思う。
 
実際に現地コーディネーターの方の話によると、仮設から復興住宅に移ったあとに、心身の体調を壊すケースが数字上でも確認されているとのこと。

石巻の活動の時は、この復興公営住宅に入り、ご高齢の方がお掃除されるのが難しいエアコン、換気扇などの高所の場所を中心に、新入社員のみなさんがお掃除活動をする。
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お掃除に来る日が決まる。
どんな話をしようか。何を用意しようか考える。
お掃除に来る前に色々と準備をする。

若い人がお掃除に来るというだけで、住民さんの日常は変わる。
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せいぜい45分ほどのお掃除なのに、これだけの準備をして待っていてくださる。
新入社員チームは1日に数件回るので、お弁当が食べられないほど色々なものをいただき、交流する。
最後に撮る笑顔満面の写真が載せられないのが残念。

仮設住宅の時代から、毎年新入社員の方と撮った写真を飾ってある住民さんの家もある。
 

コミュニティは誰にも絶対必要だとはもちろん言い切れないけれど、こうしてずっと続くと思っていたコミュニティがなくなり、そして震災の傷も残ったまま暮らす人々がいる。
一方で、快適だと周りとの付き合いを拒否し、街のことは行政に任せた先の超高齢化社会に一体何が待ち受けているんだろうと考えると、気分は重くなる。
ちょっとだけ目を向ければ、大きく変わることはたくさんあるような、そんな気がする。
 
毎年被災地に赴き、現地の方に自分たちができることを懸命に提供し、かつ毎年500名に迫る若者にこのような気付きを毎年毎年与えているというのは本当にすごい企業の活動だと思う。
 
いつも新入社員のみんなに、
「学んだことは周りに伝えてください。」
と言っているので、毎年自分もブログで伝えようと試みています。