雨で畑に出られず、微妙に時間ができたのでパソコンのメモ帳を開いてみた。
 
最近は自分のやっていることの告知や報告ばかりになり、自分の感情や考えていることを書いたりすることがめっきり減った。
 
おそらく感情の起伏が大分少なくなったのかもしれない。
色んなことに好奇心はまだあるはずだし、笑ったり、感動したり、怒りに満ちたりもする。
ただそれがすべてこれまで経験した範囲内に収まっているというか、わざわざ書き出すほどのことでもないと思ってしまうのかもしれない。

不満や怒りは何かを書くときの原動力になっていた。
ただその不満や怒りの元は自分の捉え方にだいたいの原因があり、また他人との比較による嫉妬も20代の頃はひどいものがあったが、嫉妬しても得られるものはないことにいつぞや気付いた。
与えられた能力や条件の中でどう最大限がんばるか、それ以上はどうなっても知らん。
そもそもみんなそれぞれ事情がある。
と自分にも他人にも過剰な期待をしないことを覚えたら色んなことが楽になったし、なぜかそれくらいの方が物事がうまく回ったりする。
 
そして、家に帰って子どもと一緒にいると、感情諸共すべて日常に収束されていくというか、家の中では子どもにイライラしたり叱ったりもするが、それも含めて今しかない時間なのだなどと客観視して、ちょうどいいラインに感情がチューニングされていく。
 
かつて聞いていた音楽を引っ張り出して聞いてみると、楽曲も蠢いているが、自分の気持ちもそれに呼応されるように蠢いていたことを思い出す。
たぶん今の歳でこれらのバンドと出会っていても何も感じないのかもしれない。
出会うべき時期に出会えてよかったとつくづく思う。
音楽の思い出パッケージ装置はやはりすごい。
 
誰かを好きになった時はその人が世界のすべてだったし、
フラれた時はその世界のゆがみ方が悍ましかったし、
満員電車と教壇の上の無感情な大人たちは憎悪の対象だった。
 
「夕刊フジを読みながら老いぼれてくのはごめんだ。」
とマーシーは叫んでいて、17歳の自分も
「あぁぁぁぁぁその通りだぁぁぁぁ!」
と心の中で叫んでいたが、なぜそんな先のことを不安がっていたのか今ではよく分からない。
 
今と向き合えていないとき、人は外に攻撃の対象を見つけてしまうのかもしれない。
今と向き合えていれば、先のことに不安になったりすることは少ないし、そもそもそんな暇はなくなる。
ただ、この「今と向き合う」というのが難しくて、どうしても所属している組織に心から共鳴できないとか、もしかしたらこの先もっといいことが…などと色んな理由をつけ現実逃避してしまう。
 
自分の場合はたまたま色んな関係性を作ることができたので、特定の組織や人に期待しすぎない環境になり、そのあたりはよかったのかもしれない。
家族ですら、精神の安定や心の安らぎなど、結果的にそうなるのはありがたいことだが、最初からそれを求めるのは危険だと思っている。
 
好きと嫌いは表裏一体だと言うが、逆に言うとそういう混じり合った魅力というのは今の自分にはないのかもしれない。
10年前の自分のmixiの日記は面白いが、今のブログは面白くないかもしれない。
 
結局いつもの通り結論を考えないで書くので締め方に迷走しているが、35歳の7月に考えていたことはこんな感じということで。