10月5日は、通年イベント『里山親子じかん』の稲刈り編。
6月に植えた苗が立派に大きくなり、みんなで稲刈りをしました。

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そして次の日の6日は、淡河町にある淡河八幡神社の秋季例大祭。
氏子を4つに分けて行うそうで、4年に1度の参加。4年前はまだ移り住んで1年そこらで消防団もお声がかかったかくらいだったので、今年は自分の地区が持ち回りの氏子となり初参加。
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こうした村の伝統行事は、外から来た人間はしゃしゃらず隅の方で最善を尽くす所存でいたが(担ぐの痛いし)、
「背の順!並んで!(中略)はい君!ガタイがいいから角!大変やけどがんばって!」
(しまった!!びびってamazonで買った祭り用肩パットのせいでガタイがいい認定されてしまった!!!)
というわけで角に配置されてしまい、ひーひー言いながら太鼓を担いで練り歩いた。
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(お前…つらそうだな…情けなし…)

このまま神社を出て黄金色の水田横を練り歩いていくのだが、これは「御旅神事」という市の無形民俗文化財(一応文化財巡視委員なので識者ぶりました)になっている。



ちょうど前日に稲刈りをして、この日は五穀豊穣を祈る祭り。
なんとなくではあるが、昔の人が実りに対して感謝の気持ちを示してきた意味が、少しずつ分かってきたような気がする。
 
ちょっと前までは、勉強や部活で勝てないのは己のせいだったし、仕事も徹夜をするなり、何か問題があればシステムを作ったり変えたりするなりして凌いできたし、とにかく原因は人間にあり、人間の努力でなんとかするという世界しか知らなかった。
なので神社で祈りを捧げるということの意味がイマイチよく分かっていなかったというか、悪く言えばフリをしていただけのような気がしていた(そもそも神社と寺の違いすらあまり分かっていなかった)。
 
ただ稲作や畑をするようになってから、人間はもちろん種を撒くし様々な先手を打ったりお手伝いをするが、人間の及ばないところで作物は育っていく感覚を知ったのは大きいのかもしれない。
同じようにやっていても、最後に収穫できる収量は変わるし、計算問題のように何かがぴたっと合うことはないし、人間のできることなどたかが知れていて、あとは土や雨に任せるしかない。

そんな中でできた作物を見ると、自分や人間の成果じゃなさすぎて(特に芋とか米なので)、何かにお礼を言いたい気持ちになる。それが祭りだったり、ふとした時に神社に寄ったときなのかもしれないなと。

祭り、大変だったけど楽しかった。
95%は「肩がやばい!」だったけど、5%は祈りを込められたはず。

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来月の親子じかんはいよいよ新米を食す収穫祭。