年末なので、何か書こうかと久しぶりにブログにログインしたところ、10月の頭以降まともな文章を書いていないことに気付いた。
 
例年10月に入ると芋や米の収穫や週末に何かしらイベントなどが入ってくるためブログは滞りがちになっていたが、今年は11月に入っても干し芋を週2回くらいのペースで作り始めたため、パソコンに触る時間がさらに激減した。

現場仕事や農業と、企画事務的な比率でいくと、
2015年に独立した当初は
外仕事 3:7 事務
くらいな感じだったが、徐々に外仕事が増えていき、
この秋くらいからは、いよいよ
外仕事 8.5:1.5 事務
くらいになってきた。

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(今年はファーマーズマーケットにも出させてもらった。ノリさんいつもいい写真ありがとう。)

そのため、以前はパソコンに付随するちょいとした頼まれ事などはさくっとやれていて、イベント前の竹の切り出しなどがわざわざパソコンを閉じて、作業着に着替えて、その時間を取ってやらないといけなかったのでしんどかった。
今となっては、竹の切り出しなどの外のことは他の外作業の隙間でできるのでそれほど負担ではなく、むしろメールや連絡を返したり調整したりというのが非常に困難になってきた。そして子どもが寝た後に最後のMPを絞り出して呪文を唱えて(メールなどを返して)いると、改まってブログを書く時間がほぼないという状況のまま気付いたら2か月くらい経っていた。
 
脳みそには、書きたいことが浮かんでは消えている。
干し芋を作っているときなどは完全に一人なので、頭では結構色んなことが頭を巡っているような気もする。
 
ただ、世に問いたいこだわりみたいなものがやはり薄れてきているような気もする。
もちろん、仕事に対してのこだわりは山ほどある。むしろ経験を積めば積むほど引き出しも増えてくるので、そのあたりが適当になっていることはない。
 
「自分はこうありたい。」
「社会にはこんな課題がある。だからこういうアプローチがしたい。」
「こういう生き方こそが次の時代に求められるんじゃないか。」

そういうことがスルスルと抜け落ちていってしまっているような。
もちろん「こうありたくはない。」は山ほどあるけれど。

例えば今年から始めた干し芋も、それで世の中に何か問題提起をしたいわけでもないし(っていうかできない)、革新的なものを作りたかったわけでもない。
たまたま成り行きでサツマイモを作っていて、神戸近辺で干し芋を作っている人がそんなにいなさそうで、日持ちもするので売りやすそうで、子どもが喜んでくれそうという観点くらいしかない。
何より生活していく上で、自分で生産できるものである程度経済が成立するようにならないとまずいという自分的な割合が大きい。
そりゃ当たり前だよと今では思う。

もちろんものすごく一生懸命作ってはいるが、そこに何かを語るような大義があるわけではない。
大義はいつも後付けで美しいストーリーに包まれて生まれていくのだ。
そこには自覚的でいないといけない。

ただ粛々と、自分の周りにあるリソースを眺めながら、踏ん張れば形になりそうなことをやっている。
誰かが一緒に仕事をしようと声をかけてくれたら、それに応えられるようにやる。
自分のやり方が相手の求めているものと違えば、ただ頭を下げて去ればよい。
固執をしたり受け入れてくれないことを否定しないように(まあしてしまうけど)。
そして妻も毎日働いていて、二人で何とか稼いだお金で、子どもを育て家族で暮らしている。
2019年も変わらずそういう日々だったのだ。

なんとなくそんな風になっていったのは、農家さんや農村の人との関わりが増えたからだと思う。
これはあくまで自分の見え方だが、農業に対して人間ができることには限界があって、だからこそ、結果に対して農家さんは寛容というか、人間の「足るを知る」をよく分かっているのではないかと思う。
そしてその姿勢が対人にもすごく表れているため、農家さんと接していると自分の「こうあらなければ」という殻が砕けていくような、そんな気がする。

そして、人が生きていくために必要な食べ物を、日々淡々と作り続け、人々の生活を支えている。
やりたいからやるとか、やりたくないならやめちゃえば?とかそういう次元ではない。

自分も徐々にではあるが、その一助になれたらいいなと思う。

…あ、やっぱりなりたいものあるんじゃないか。


そんなことを思う、2019年も暮れ。
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