先日、茅葺きの親方の相良さんとメッセンジャーでやりとりしていて、ふとしたことから芸術やアートの話になった。

自分は小さい頃から絵を書いたりするのが苦手で、また教科書に出てくる偉人の作品を見ても何一つ興味もわかないという、努力でどうにかなる感じが1mmもしなかった教科が美術だった。
なので「芸術」や「アート」、それに紐づくような言葉は全て劣等感によるものから自分の人生の文脈にはないものとして処理してきた。
自分にはないものとして、そういう感性のある人たちには強い魅力を感じるのである。

里山でこんな一見謎な生き方をしていると、稀にある集まりで、
「ここにお集まりいただいたクリエイターのみなさま~」
というとんでもないくくりをされるケースがあり、
「(そういう世界の住民ではないので本当にだめ!!一緒にされたら他のクリエイターの人々に失礼すぎるからやめろ、やめろ、やめてください。もう帰って一人でもっこす食べに行っていいですか?)」
という非常に申し訳ない気分になる。
 

今回は、相良さんから小2の息子に見せたらどう?というYouTubeのリンクを送ってもらったのだが、それが自分では一生検索にもかからないであろうものだったので、ついつい絶望した返信をしたら、決して感度が低いんじゃないと思うでというやさしすぎる返信と共に、こんなリンクを送ってもらった。



そこで、一番目に留まったのが以下の文章だった。
『誰にも頼まれていないのに自分の発想でつくり始めて、結果、誰かの目にとまるというのがアートだとすると、デザインには、必ず依頼者がいるんですね。
 いま、「デザインによる問題解決」という言葉が流行っていますけど、昔からそれは同じで、何かを解決し、より良くすることがデザイン。』

「デザイン」という言葉も、自分の中では遠い世界の言葉の1つなのでなるべく使わないように生きてきたつもりだが、苦手意識があるからこそ、アートやデザイン…それらに類似する言葉をほとんど同じような意味合いとして捉えてしまっていたのだと思った。

確かにアートは未だにちょっと縁遠いものであるし、今後もお近づきになれるか分からない。
ただデザインという言葉に限っていえば、実は強い興味のあることなのかもしれないと。

やっぱり人間の関係性に興味があるし、それぞれが関わることでボチボチ幸せになれたり、権力の言いなりにならない社会とか地域のシステムって何なんだろうということは、つまり生き方とか暮らしをデザインするということに繋がっているのだとすれば、そこに対しては一生懸命考えている自負は多少なりともある。

現実世界にしか興味がないことについては幅を広げたい気もするので、30代後半はもう少しアート(とは一体なんなのか!?)にも意識的に目を向けていけたらよいなと思う。
 
でもやっぱり、生活(現実)の上にある合理的なデザインである茅葺きは、初めて黄金色の屋根を見た時言葉を失うほど感動したのを覚えているなぁ。
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あー、こういう自分と他者の違いを認知していく作業は面白い。
記録的に。