買っては読み切れず溜め込んでいた本を読む時間が増えている。
こんな時に、手に取って直感的に読みたくなった本が『日本の民俗~暮らしと生業~』という本(写真集)。
日本の民俗 暮らしと生業 (角川ソフィア文庫)
芳賀 日出男
KADOKAWA/角川学芸出版
2014-11-21

住んでいた場所を言い訳にしてはいけないが、埋め立て地という人間が作った場所で幼少期を過ごしていたので、これらの文化的素養はない。そして、小学生の時に地下鉄サリン事件が起こり、事の重大さを大して理解できない年頃には、「祈り的なもの」は怪しく滑稽なものとして認知され、モノマネなどをして先生に怒られていた。

そのまま大人になり、つまるところ全く興味のない領域であった。

変化が起きたのは、30歳を過ぎて里山で生活し始めてから。
田んぼや畑に触れると、その祈る意味や、先人が儀式をしてきた意味が体感的に分かるようになってきた。
なぜ種や苗を土に植えただけで、数か月後には作物が育つのか。
科学的には説明がついても、やはり体感的には人知を超えている感が半端ないのである。
「つるまき農園の米とか焼き芋うまいな。」
と言ってもらえて嬉しい反面、例えば料理人のように、自分はその食味を生み出す決定的な何かをしたのだろうか。
そして、来年同じ食味のものを得られる保証はどこにあるのだろうか。
未だに分からない、不思議なことだらけ。
そんなことを知れば知るほど、何かに祈るという意味が実感値として分かり始め、これらの本も興味がわき手に取るようになってきた。

テクノロジー(※科学技術や工業技術という意味のようです)や充分な情報がなかった時代は、きっと色んなことの因果関係が分からず、突然大きな困難に襲われるという感覚で、不安に苛まれていたのだと思う。そしてそれを祈ることで困難を和らげたり無事収穫できた感謝を伝えたりしていたのではないだろうか。

現代を生きる人間は、新しいテクノロジーで何とかなると思い過ぎではないか。
誰かが、新しい「何か」を生み出せば、きっと今直面している問題は解決すると信じている。

いやちょっと待て。
そのテクノロジーを前を進めるためには身体に充分な栄養が必要だ。
オンラインで口に食べ物は届くのかい?
次々と新しい横文字を繰り出している人たちは、土に触れて米や野菜を作ったことはあるのだろうか。
もちろん役割の話なので、全員が農に携わる必要は全くないのだが、テクノロジーのさらなる進歩ですべてが解決すると思い過ぎではないだろうか。
『新しい働き方』とか『新しい関係性』とか、多くのことが表面的な話にしか感じない。
なぜいつもそっちなのか。というか。
この困難で、さらに前に進むのではなく、ちょっと過去の在り方も見つめなおす流れにはならないのだろうか。

もう過去から現在に至るあらゆる有能な偉人たちが充分すぎるほど便利にしてくれた。
家にいながら、こうして言いたいことを発信できる。すごいこと。
ここからは、「今」から「過去」にある英知の中で選び取って、少し揺り戻しをしたりしながらちょうどいいところに着地していけば充分なのではないか。

何でも人間のシステムで解決できると妄信せず、目の前にあることや起こっていることを受け入れて、制圧するのではなく、ベターな選択をしていく。

それなりにうまくいった暁には、自分たちの力だと奢るのではなく、祈りを捧げて感謝する。
きれいごとに過ぎないかもしれないが、今はそんなことを感じる。

過去の営みは、多くの示唆を与えてくれるような気がするのです。
人間は、そんなに何もかもはできない。
P_20200415_214657
若水:年神を迎える。
P_20200415_214945
浜降り:浜に間仕切りをした小屋掛けが並び、先祖祭りを行う。この感じいいなー。
P_20200415_215125
水口祭り:田の水口に、供え物をして、神酒を注ぐ。こういうことをする気持ちがよく分かる。今年はなおさら、ね。