今日はお迎え担当。

家に着き、さて夕飯を作ろうかという時に、
「今日クリームシチュー食べたい」
と言ってきた。

googleやクックパッドの検索窓を叩けば、ルーを使わないシチューのレシピは山ほど出てくる。
便利な世の中です。
でもなんとなく、今日はそれを食べるためにモノを買うという行為がしたくて、近くの小さなスーパーに行った(人口2500人の町民のインフラを支えてくれるスーパーがあるのです。18時閉店なので毎度絶妙)。

小さいスーパーだから、選ぶ種類はない。
けれど見つけた瞬間、そこにあったことが嬉しくなる。

手に取り、お会計。
少し涼しくなってきた夜に、これでクリームシチューを作る。
2020-09-23-092203649
最近、モノに紐づく記憶や偶発的な出会いは意図的に作ろうと思うときがある。(偶発を意図的にって日本語変なのか?)
親の本棚やCDラックにこそっと手を伸ばし、運命的な出会いを果たしたというエピソードは多い。

本もCDも、すべて親のタブレットやパソコンの中に収まってしまったら?
すべてキャッシュレスになったら、子どもはお金をどう認識するんだろう?
毎回毎回違うレシピを適当に検索して作るから、「親の味」というのが存在しないのでは?

抗うわけでも否定したいわけでもないのですが。
便利なんで。

自分がカバヤのおまけつきのお菓子を買ってもらえた時の嬉しさをいつでも思い出せるように、一緒にモノを買うという行為も、世代を越える安定した味も、それもまたいいんじゃないかと、そんなことを思ったのでありました。

食べた結果、真夏を彷彿とさせる汗が吹き出す(まだ早い)。