映像としてほとんど見なかった(アスリートに罪無しなのだが)オリンピックの勝った者、負けた者。
何かが炎上すると、謝罪させた側は勝者で、謝罪した側は負けなのか。

そういえば、自分は最近、何かに勝ったり負けたりしているのだろうか。
営業成績で比較されるとか、肩書きの出世競争はない。 
明確な形で、誰かに勝っただ負けただというシーンはもうほとんどないのではないか。

例えばマーケットやイベントで、横に出店している農家さんや飲食店さんより売った、売れなかったとか、そういう勝ち負けはあるかもしれない。
でも、そもそも持ってきている量も違うし、勝つ、負けるという二元論ではない。
仮に、自分が10,000円の売り上げで、隣の農家さんが11,000円だとしても、1か0ではない。
むしろ、みんなでいい場所を作り、結果お客さんも増え、売り上げが15,000円と16,000円になればそれが一番よい。

たぶん、何かしらの方法を用いて隣の農家さんを完膚なきまでに叩きのめし出店できなくさせ、自分だけになったとしても、売り上げは20,000円になるのかといったらそうではなく、たぶん当初の10,000円すら割り込んでしまうのだろう。その場所はいい場所になっていないから。
 
めっきりそういう世界なのだ、自分がいるところは。
 
勝ち負けの中には潔さがあり、それが見るものを魅了する(自分もスポーツ大好きなので)のだが、全てが勝ち負けの中に収束されていくのは『溜め』がなくなり怖くなる。
 
「どっちでもない」というのはもっと大切にしなければいけない。
 
平等という状態は目指すべきだが、現実的にそれだけを盲目的に語っていると嘘くさいので、取り分として6:4だったり3:7だったり、2:3:5だったり、そうやって微妙な多い少ないを組み合わせながら生きていきたい。これは思想だったり、あらゆる人間関係でもそうであろう。
 
そして、勝った負けたというのは、対相手ではなくて、もう自分の中にしかないということだ。
その瞬間の行いや言動、踏ん張りが、自分の中で「勝ち」なのか「負け」なのか。それはもうしっかり分かってしまう年齢になった。そこを誤魔化し始めると終わる。
 

オリンピックという仕組みに、羨ましいと思う時がある。
何か結果を出す瞬間や区切りが用意されているからだ。
今思えば、3年、4年という区切りがある学校もそうだったのかもしれない。
 
仮に学校を卒業した後を、『社会人』なるゲームやレースとするならば、勝ったかも負けたかも分からないゲームをずっと続けていることになる。
 
その勝敗やゴールは、どう考えても他人によって下されるものではない。
 
盆も終わり、また長い続きが始まる。
DSC_1639