農村地域に住んでいると、色んな機会で野菜をいただく。
特に今年は畑でさつまいもしか作っていないので、夏野菜をいただけるのは本当にありがたい。

野菜は作ってみると実感するが、ある一定の時期に収穫時期が重なるので、せっかくたくさん実ってもすべて自分たちで食べきるのは難しい。
そして「他人にあげるなんて!」と囲い込んでいても、野菜はいつか腐っていく。
だから、どうせ腐らすなら、おいしく食べてくれる人にあげよう。
あの時野菜もらったから、自分の畑の違う野菜を渡すか、別の形で恩返しできるようにしよう。
そうやって、手にしたものの価値に時間の制限があるから、それを交換しあって生きていく中で、相互扶助のような関係が自然にできていくのではないかと思う。

一方で、価値は相場によって若干上下するが、おカネは腐ることはない。
今手に入れた諭吉さんは、来年、そのまた先も諭吉さんとしての価値を保ったまま君臨してくれる(はず。そろそろやばいかも?)

腐らなければ、誰かのために今使うよりも、何かあったときのために自分でずっと持っている方が(とりあえずは)よい。
だから、奪われるとか減るということに恐怖を覚える。

そしてこんなことを指摘する人もいる。
時間による変化の摂理からはずれたものがある。それがおカネだ。
おカネは、時間が経っても土へと還らない。いわば、永遠に「腐らない。」それどころか、投資によって得られる「利潤」や、おカネの貸し借り(金融)による利子によって、どこまでも増えていく性質さえある。
これ、よく考えてみるとおかしくないだろうか?この腐らないおカネが、資本主義のおかしさをつくりだしているということが、僕がこの本で言いたいことの半分を占めている。
『田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」/渡邊格』
このおカネを介したやりとりだけで生きていると、分け与えるとか、共有するということがしにくくなるのかなと思う。だって増える可能性だってあるのだから。

以前何かの本で、お金も発行年から1年ずつ経つごとに10%ずつ価値が目減りしていくみたいなシステムになれば(例えば去年発行された諭吉さんは今年は9000円分の価値しかない)、もっとお金は流動的になるのではという話があり、おもしろいなぁと思った。

これだけNPOに近い場所で生きてきても、どこかに金銭で寄付するという行為1つでも、震災などよっぽどの共感レベルのものでないとできない。生活に余裕があるわけではないので、何かあったときに手元に残しておきたい。そういう心理は十分にある。
一方で、野菜などであれば、腐ってしまうならという心理で交換が生まれる。それは隣人を愛せよ的な倫理的なものでなく半ば強制的に行為が生まれるものかもしれないけれど、その強制力が生まれる場所に身を置くことが結構大切なのかもしれない。

腐るものを生産するという行為は、相互扶助の基本となることなのかもしれない。
自分ももらうだけでなく、ちゃんとお返しできる人になろう。
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