最近読んだ本でおもしろかった気付き(みうらじゅんみたいになりたいのです。)
マイ仏教 (新潮新書)
みうらじゅん
新潮社
2012-07-01





マイ仏教と名乗りながら、「宗教が苦手な理由」という項目の一節。

お釈迦さん個人の教え自体は、哲学や考え方として受け入れることができるのですが、「じゃあ信心はあるのか」というと、途端に尻込みしてしまいます。どうしても「信心=団体行動」というイメージを抱いてしまうのです。
(中略)
似た考えの人が集まって、ひとつの目標に向かって頑張らなければいけない、という状態が非常に怖いのです。自由の根本は、「みんなちがって、みんないい」のはずで、マイナーな意見が潰されがちな団体というのがとにかく怖いのです。

共感しました。
これはおそらく宗教に限らず、たくさんの人が集まる場所が昔から苦手な理由や感覚が詰まっているような気がするのです。
おそらくこれは、人の数に加え、組織の長さという観点も入ってくるのではないでしょうか。
なので、50年以上続く大企業の不祥事…となると、その流れに飲み込まれていった背景を想像すると「うっ。」となってしまうのです。
 
仏教も、歴史を紐解いて個人的に勉強してみるとすごくおもしろい。
例えば農業でいえば、有機農業のメリットやデメリットも調べるし、化成肥料のメリットやデメリットも調べる。それぞれがやり方を選んで取り組んでいること自体がおもしろい。
都市の生活と農村の生活もそう。そもそも区切れるものではなく、グラデーションの中の話でしかないのです。
 
そういう中で、
「やっぱり有機農業しかだめじゃないですかぁ!みんなで有機農業やらないとだめですよぉ!」
「農村の生活っていいっすよねぇ。都市に住んでる人は衣食住の根本的なこと分かってないですよねぇ!」
みたいな感じで思想を押し付けられたり、それで集団を構成しているところに出会うと、一刻も早く逃げたくなります(しかも大抵農業をしてない人や農村に住みたい段階のような人に言われるのでなおのことしんどい)。
  
有機農業の価値も、農村生活の価値も分かっているし、だからこそ農村で暮らし、販売する作物は化成肥料も農薬も使わないように努力はします。
けど、それが正解ではないのです。自分で選んでいるだけで、相手にそうしなさいと言えるものではないのです。
 
農業のことを色々と教えてくれるある農家さんは、
「俺は有機を選んでやってる。それだけやで。」
というスタンスだったのでとても腑に落ちて、色んな価値観をぶつけてみたくなるのです。

大きなものに絡めとられると、個々の知恵が失われていきます。
個性よりも、本来備わっている知恵というか考える力が失われていくのが怖いような気がします。