今年に入ってから、少しずつ読み進めていた本。
庭の話
宇野常寛
講談社
2024-12-10


自分自身ずっとコミュニティとか共同体のあり方に興味があり、10年以上前に農村に移り住んで実際に様々なことを感じ、未だ興味は尽きないことである。また、自分の意志で社会と接続できるような小さいことを始める、といったこともすごく大事だと思っていて、機会をもらっているスクール的なもので色んな人に伝えてきたり、自分自身やってきたところもあるので、この本は自分の頭の中にあるものの整理や新しい気づきをもらえるものとしてすごく面白かったのでまとめてみた。

人間同士の相互承認に傾き過ぎている?

まずこの本の前提に書かれていることは、現代社会はインターネットを中心としたプラットフォーム資本主義であるということ。自分自身も、SNSに投稿して「いいね!」をつけてもらい承認されることに大きな快感を覚えている身でもあるので、どっぷり浸かっている側かもしれない。仕事でも使うし。
これを別で表現するならば「"人間同士の"相互承認」が中心の社会ということ。例えば80~90年代は、消費社会として自分を着飾ったり表現するような"所有"が人々の自己実現に大きく寄与していた。現代は情報社会であり、体験やコトということが大事になっており、さらに体験を発信することで承認を得る―つまり人間間の承認を無尽蔵に行い続けることで、自己実現や大きな喜びみたいなものにつながっている社会だと一旦規定する。

問いとして、この人間同士の相互承認社会が進み過ぎたことで、様々な問題や歪みを引き起こしているのではということが1つ。一方で、そうしたプラットフォーム資本主義に対抗して、ローカルな古き良き時代の共同体的なものをつくっていこうという動きに対しても批判的に書かれている。ここは自分にとって耳の痛い話でもある。なぜならば、共同体やコミュニティをつくると、必ずそこには生贄や敵を必要とし、外に敵を設定して攻撃することで、自分たちは共同体の同志であると認識するからだ。そのあり方を是とするのもリスクがあるのではというのがもう1つ。

間にある「庭」的なものの必要性

ではどうするのかということで、「庭」的なものが必要なのではという仮説が書かれている。
「庭」という言葉は比喩的に使われているので、物理的な庭を全員が持って、そこで庭いじりをしようという話ではない。
この本では、「庭」を、
・人間以外の何らかの事物を対象に作業できるような空間であること。
・「庭」の事物同士は相互にかかわり、独自の生態系を構築していること。
・自己の存在が世界に影響を与えていることを実感できるが、支配することはできない状態であること。
などと定義している。

この感覚は、農業に少しながら関わっているとすごく分かる気がする。例えば畑の中で一生懸命作物を管理しようと思うけれど、どんどん草が伸びてきたり、病気が出てきたり、いきなり台風や獣害ですべてやられたりする。自然と対峙していると「支配できる」という感覚が無くなっていく。人間がつくり出す仕組みの中で、支配するとかされるとかではなくて、人間外の事物との関わりによって支配し切れない感覚を持つことが大事だということは、自分が農に関わって思うところである。いい意味で諦めるしかないという境地に達せられる意味においても。
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また庭という空間は、家(中)と外の間にあるような場所であると説明している。
かつての家であれば、縁側のような家と外の間にあるような場所や、庭で収穫した野菜を洗ったり選別したりしていた納屋のような空間もあった。庭(ば)=場(ば)。都会でマンションやアパートのような家屋に住むと、そうした"間"的な場所があまりないので、家の中と、外の仕事といったような、感覚的には完全に区切られた2つの場所しか持てていない可能性がある。その間にあるような、一見するとあっても無くてもよさそうな場所が実は重要で、その場所で自分で何かをつくったり、自然物と触れ合うような時間が必要なのかもしれない。
自分も農村に来てから言葉で語るだけではなく、体感的にも腑に落ちる。経済的に言えば、1円もお金を生み出さないどころかガソリン代や時間までも失う草刈りという行為についても、支配できないものと向き合いながら、なんとか自分や誰かが足を踏み入れる空間を維持していくという営みが、実は人間として必要な時間なのかもと思ったりしている。"家族"や"国家"という言葉には「家」という言葉があり、基本的に内的な家のことばかりが話題に上がるが、もう少し間のような場所の必要性も話題に上げていってもいいのかもしれない。

そして、間というものを表す比喩的な事例として面白かったのが、銭湯。ある銭湯では、一番お客さんが多い時間は夕方らしく、夕方というのは、昼間に働く時間と夜の働かない時間の結節点みたいな時間帯である。昼間は、仕事を通じた社会的自己実現のゲームにガーッと入り込んでいる時間で、夜になると、今度は家族や恋人といった他者と向き合う時間か、SNSで昼の延長のような社会的自己実現や自己表現ゲームの続きをしたり、それを見続けてしまう時間になる。結局昼も夜も他者と向き合うような時間が続いてしまい、対人関係のゲームにずっと参加しているような状態になってしまう。
夕方というのは、一日の半ばは過ぎているけれど、もう今日は何もできないと諦めるには早い時間という、非常に曖昧な時間。家と外の間の庭、昼と夜の間の夕方。要するに間にあるもの。
夕方の銭湯という場所は、何者かになるとか、何かをできるようになるとか、そういう重圧から人々を解放する場所。銭湯の常連も、喋り合うのではなく、お互いを認識しつつも放っておく。何者でもない人間として存在できる空間をお互いに保障すること。今を生きる人々は、夕方の銭湯のような時間が足りていないのではないかという仮説である。
自分もたまに三宮とか街のほうに出ていくときに、誰にも会わなそうな経路で散歩して、すごく落ち着く感じがあり、何者でもなくいられるような場所が欲しいなと思うときもある。一方で都市で暮らしていた時や東京の実家に帰り街を歩くときは、あまりにも何者でもなさすぎて、もう少し自分という存在証明のようなものがほしいと思ったりもする。

個人の独自性を保ちながら関わる"コレクティフ"な人間関係

そうした庭的な、夕方的な場所が必要なのではというところで、次は個人の感覚から派生して人間関係としてはどういう状態が望ましいかという観点。
生物は関係し合って生きていくので、共同体を完全に否定することはもちろん不可能。人間関係の一つの可能性が「コレクティフ」ではないかと書かれている。コレクティフという言葉は、精神科医のジャン・ウリという方が提唱した言葉で、

その構成員である個々人が自分の独自性を保ちながら、しかも全体に関わっていると感じられて、全体の動きに無理に従わされているということがないという状態

という意味を持つそう。
"コレクティフ"の対にある言葉が、"グループ"という言葉で、「共通の目的を持って組織化された集団」となる。これは一般的には会社組織とか部活とかサークルといったものに当てはまると思われる。このコレクティフという言葉は、自分自身が頭に思い描いていて中々表現するのが難しかったものが整理された気がして、こうした関係性や小さなコミュニティをどうやってつくっていけるんだろうというのを、10年以上かけてずっと考えているのかもしれない。
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こうした関係性を語る場合に、農村には昔ながらの強力な共同体があって排他的なのではないかと言われるが、個人的にはそういう感覚はあまりない。むしろ会社組織の方がまさにグループという感覚があり、その場所に関係性も金銭的なものも全BETしてるがゆえに同質性が異様に高い感じがして、自分は結構窮屈だった。
ではなぜかと考えると、それはコレクティフの中にある"独自性"がどこまであるかによるのではないだろうか。例えばざっくりと一般化すると、農村の暮らしは、それぞれがまずは個人経営とか小規模経営で農業や商店とかサービスをそれなりに営んでいる。兼業農家で米をつくっているなどもまたしかり。そして地域を維持してくために消防団や営農組合のような村の地域活動によって共同体を形成している。こうして独自性を担保した状態でつながっていることが肝なのではないか。もちろんそうした地域活動や変化を拒む古くからの慣習のようなものが強くなりすぎると排他的な共同体になってしまうので、客観的に見ていくことも忘れてはいけない。ただ実際に住んでいる身としては、(淡河町がいい町なだけで)数多の農村がそうだとは言い切れないが、コレクティフな状態をキープしながら生活できているから心地よいのではないかと思っている。

個人の独自性と制作

そしてまた庭の話に戻っていくのだが、では自分の独自性を持つためにどうするかというと、個人が世界に関与しているという手触りを得ること。ただ、それを実現するために全員が起業して一本立ちすべきだという話ではなく、例えば複業やプロボノなど、そういうことを通じて"弱く自立"していくモデルというのが大事なんじゃないかなということ。
ハンナ・アーレントの「人間の条件」という本の中では、労働、制作、行為というのが人間である条件だと書かれているそう。
労働:個人の生存と直接関連している活動で、絶え間ない再生産のサイクルの中で仕事をして日々生活を維持するためにお金を稼ぐこと。
制作:人間が何か事物を作り出して、世界に恒久的な変化をもたらす活動。つまり道具を作ったり作品を作ること。
行為:人間が他者と交流して、共同の世界を形成することで、社会的、政治的な活動をすること。
と定義されている。
60~70年前にこの本が書かれた時代背景としては、労働や制作よりも、行為という政治的や社会的な活動を通じて世界に関わっていくことが大事ではないかと書かれていたそう。一方で現在は、労働の領域がかなり肥大化しており、労働による自己実現など、そういった観点が大きくクローズアップされている。過度なグローバル資本主義によって、ものすごく稼いでいるとか、この人は稼いでいないから全然ダメとかすぐにラベルが張られてしまい、労働の内容や報酬によって自分の存在が強く規定されてしまっている。一方、ハンナ・アーレントが大事にしていた行為についても、SNSなどで政治家や有名人を叩けばあっという間にまとまった数の"いいね"をもらえ、インスタントな承認を得ることができる時代になっており、この"行為"というものもかなり暴走しているのではと宇野さんは仮定している。

なので、今現代人には"制作"が大事であると主張する。
人間同士の承認ではなく、人間が事物に向き合って何かをつくり出すということ。例えば土に向き合うとか、自分の家の棚を作ってみるとか、そうした制作の比率を上げていって、制作に没頭する快楽みたいなものを大事にしていく必要があるんじゃないかというメッセージだった(と自分では解釈した)。
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個人的に対峙していること

ここからは個人的な見解。
自分自身も、農村での創業プログラムや兼業農家を目指す農業スクールなど色々と関わらせてもらってる中で、そこで常々言っているのが、「小さいことから始めませんか?」ということ。それがすごく大切だということが自分の実感値としてもあり、つまりそれは、宇野さんの本で説明すると"庭的なもの"なんだろうなと。
特にサービス業的な仕事をしていると、人間同士の相互承認が前提になっていくので、どうしても目線が人間のことばかりになっていく。そういう中で、例えば畑をして土や野菜と向き合う中で、
「なんかうまくいかないなあ。」とか、
「ああ、なんだかうまく育ってくれたなぁ。」とか、
そうやって支配できない中で、人間以外の事物―つまり土とか自然から影響を受けるという環境が大事だなと感じている。
家の家具をDIYしてみるとか、草花を活けてみたりとか。あと自分は料理が好きなので、 料理をつくるということも制作の一つなのかもしれない。そうした対人間に関わらない時間とか場所、そして意図的に孤独であるという時間が大事なのかなというところは、この本を読んでて整理できたような。またそういったことを通じた身体性の発達は、人間関係に立ち戻っても他者の複雑な状況や動きを理解できるようになり、他者をもっと面白がれる可能性もあるのではないだろうか。

自分の庭的な場所を持って、小さいことから始めて、そこから社会にアプローチしていく―。
同時に、こういう考え方で各種プログラムに関わっていると、稼ぐといった経営的な観点では非常にこの説や自分の考えは弱くて甘いのかもしれないなとも常々思ってる。
ただ、そもそもを考えてみると、 こうした農村でのプログラムに参加いただく方たちは、今本当にお金で困っていてっていう人は基本的に来てないと思われる。
また一方で、リスクを背負った起業や新規就農に進む人は、誰かのお膳立てではなくて、突破口さえあればやるなと言われてもやっちゃうような人たちなので、その中で自分で稼ぐ道筋を必死に考えていって形にしていくんだろうなと思うところでもある。

つまり、今そこまでお金に困っているわけではないし、仕事とか生活を全部塗り替えたいというわけでもないけれど、何か物足りなくて、日々仕事をしたり子育てをしていている中で、自分が世界に接続しているという手触りを欲しているんじゃないかなと思う。なぜなら、自分自身が10年前にそうだったから。
自分自身も、移住したあとに芋掘り農園をやってみて、初めて見知らぬ人が農園に来てくれて、1000円を受け取った時に、得も言われぬ喜びを感じた。この1000円は、その額が多いとか少ないとかそういう話じゃなくて、自分で仕掛けたことがそのまま自分を通じて社会とつながっていったという感覚の証。それは人が人として生きていく上ですごく大事な感覚だと強く思った。一定規模以上の会社組織で働く人が増えていくと、それらを感じられる人が少なくなっているという社会の構成になっているのではないか。
なので、自分で屋号を掲げてみて、野菜をつくって誰かに売ってみるとか、商品開発して1回イベントに出店して販売してみたらいいと思う。自分で制作をして、その制作物をもって社会とつながっていくことそれ自体に価値があるのではないだろうか。そして続けていく意志があれば、それは仕事として次第に拡大していく。5年続けている人で、5年前から何も状況が進んでいない人はいない。そして、小さくともそれぞれが自分の世界を持っていて、そうした弱い自立を通じてグループという同質性の高い共同体ではなくて、コレクティフな関係を築ける感覚を得られるのではないか。
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とはいえ、共同体には割を食う感覚も必要では。

こうやって宇野さんの本を読んで整理できた感覚もありつつ、共同体についてもう一つだけ。
共同体を保っていくにあたり、それぞれの世界を認めていくことはもちろん大事だが、同時に、それぞれが好き勝手に自由にやっていていいのかというと、個人的にはそれも少し違うなと思っている。
ある本に、
「よい共同体というのは、主観的に全員が持ち出しであり、全員が割りを食っていると思っている状態。」
という言葉があり、自分は共同体やコミュニティに対しては、この感覚が一番しっくりくるなとも思っている。
農村に限った場合、自然に対して人間が対峙していくときに、それぞれが好き勝手に生きていると、自然に全く抗えなくなる。みんなで草刈りをするとか、地域の保全をするということをやっていかないと、自然というものはあまりに大きいものであり、あっという間に飲み込まれていく。自然と均衡な関係を保つためにも、それぞれが時間を出し合っていく必要がある。
コミュニティや共同体は、いきなり何かを与えてもらえるわけではなくて、持ち出しでやっていたり、なんか割り食ってるなーとそれぞれが思っているぐらいに互いに時間や資源を出し合って、ようやく少し返ってくるものがあるくらいなのではないか。自分は結構そういう感覚があるタイプなので、この感覚を忘れないようにしながらも、ただ思考停止で従うのではなく、それぞれが独自性を持っているような共同体のあり方を、これからも色んな人と考えて実践していきたいと思った。

ここ数年自分が考えていることの一部が整理できたとても面白い本だったので、まとめてみた。